過去と未来が出会う場所

「ひと」の場を構築するために

日々日々

「開けてはいけないお土産とは何なのか?」

一挙に不連続に老いてしまう、老いを先送りする装置が「玉手箱」。
過去に生きてしまうほどの過去を持つ人はリスタートやリセットのための何らかの区切りを必要とします。
浦島太郎にリスタートしてもらうため、人情として乙姫は「玉手箱」を渡すのです。

仕事への閉塞感。社風、社内”ルール”の「つかめなさ」

「玉手箱」を開くこと。
パンドラの箱を開けること。
一気に老いること。

仕事で行き/息詰まって、閉塞感を覚えたら、とりあえず寝て、また明日考えるということでいい。

そうやって、心にスキマを作ることが、閉塞感の打破につながります。
自分に飽きる→別のことをやってみる。

実際は人間の無意識や身体を信頼しながらそれを新たに組織化していく努力。 反努力的なそれゆえ、質的な飛躍を可能にする本質的な努力の必要性。

河本英夫『飽きる力』読了 - 細々と彫りつける

偶然

身体は、何にも向かれず、死は外からやってくる突然の偶然にすぎず、身体は自ら自身を消費するだけであり、消尽するだけである。

苦しむことは新たな形成へと向かっている証し

<<奈義の龍安寺>>は、円筒形の筒の中に京都の龍安寺が射影されており、内部では安定した足場はどこにもないので作品の内部にいるだけで、身体も感覚も自ずと形成されてくる。
1時間もその内部にいると苦しくなるので、作品の外に出て佇まなければならない。

結論 身の丈を一歩超え続ける アンリ・マティスのように

身体そのものも、まさに存在することの喜びにあふれている。(中略)この喜びが見る者にとっての快につながるように作画することができる。こうした喜びにあふれた顔を描こうとすると、細かな技術による丁寧さが、むしろ邪魔になってしまう。あることの自然性に向かい、このおのずと自然性であることの喜びに到達するためには、落とすことのできるものはすべて徹底的に落としていくことが必要であり、さらには在ることの「強さ」に向かうことが必要である。

制作の「喜び」が、見る者にとっての「快」につながるように行為せよ。

「快 装飾」「強度」「存在の現実性」などの部分はマティスが目指したもので直接経験のモードに関わらないもの、「想起 再組織化」「佇む」「経験の拡張」などの部分は少年の経験モードに直接関わるものである。

前者は、個人的に建築を考える上で共感する部分が多く、それらはこのブログでしつこく何度も書こうとしてきたことと重なる。そういう意味では自分は少年であり続けるための条件を手にしているのかもしれない。それはとても幸運なことのように思う。
後者では、今まさに40を迎えようとする、若干の飽きと迷いの中にある自分に一つのあり方を示してもらえたような気がする。今の状態を決して悲観的に捉える必要はなく、次の回路が見えてくるチャンスとして捉えればよい。固執することなく経験のモードを開きながらこだわり佇んでよいのだと勇気がもらえた。重要なのは経験を拡張していくための構えのようなものであろう。

https://onoken-web.com/blog-4495

仕事で辛い目にあうことも(モノによってはですが)苦ではな苦なるはず!