過去と未来が出会う場所

「ひと」の場を構築するために

モノづくりの哲学

1.Fab ―パーソナルコンピュータからパーソナルファブリケーションへ (Make: Japan Books)

Fab ―パーソナルコンピュータからパーソナルファブリケーションへ (Make: Japan Books)

Fab ―パーソナルコンピュータからパーソナルファブリケーションへ (Make: Japan Books)

パーソナル・ファブリケーション(個人的な欲求を起点として、身近な問題の解決から、結果としてものづくりを体得すること)の紹介や、その「ものづくり」の教育モデルの紹介。 「技術と職人が密接不可分に結びついていた時代[…]の工業の原点に立ち戻ることができる。」というようなことが言及されている。

今のテクノロジーは、手段が目的化されている。


「現在私たちが当たり前のように利用している大量生産のインフラストラクチャがなかった頃のものづくりは、プロフェッショナルの仕事というよりはサバイバル(生き延びるための)手段だった。」 「道具を自宅で製作できるようにする目的は、テクノロジーを創造する力をテクノロジーの利用者の手に取り戻すことにほかならない。」 (「ものづくりとは」の章)


また、LISP言語から、LOGO言語という子供向けの言語が開発されている。 人工知能モデルの開発を子供たちにやらせることを目指して開発されたらしい。 (「仕事の中の遊び」の章)


(本当は17台もの埋め込みコンピュータが、テーブルの裏面の何百個ものセンサーマイクロコントローラと接続されているのに)「コンピュータがないのはよいわ。」 (「美術と武器」の章) といった反応は、人と機械の関係を考えさせられる。そもそも何をやっているのかよくわからないのが機械なのである。


”(データアプリケーションというものは)ソーセージのようなものだ。 作られているところは、見ないほうがよい。”


2.人と「機械」をつなぐデザイン

生態心理学者の佐々木正人と著者の対談が終章に掲載されている。この中で、劣化のポジティブな価値というものが、今のエンジニアにとって有用かどうかという発想が面白い。

ドッグイヤーと称されるようなエンジニア業界で、それこそ35才引退説などと巷で揶揄されているような環境で、この発想は出てこないであろう。

芸能における人間国宝のような存在や、使い古して味の出る工業製品のようなものが重宝されるような世界が、はたしてできるのか。

人工知能は敵か味方か」というような発想を超え、AIはもはや当たり前のように介在し、遍在化してきていて、我々の意思決定や行動のきっかけを(良くも悪くも)与えてしまう存在となってきている。 今はまだ「便利」だとか、あるいはロボットの「かわいらしさ」だとか、「有用」なことが善であるような環境のものづくりの世界から、徐々に、いろいろな技術が蓄積されていき、学ぶは「まねぶ」という発想の徒弟制度のような世界が立ち現れてくるかは、未だ不明である。



3.ヒトと機械のあいだ―ヒト化する機械と機械化するヒト (シリーズ ヒトの科学 2)

「認知=脳」という考え方を超えた、身体そのものの特性(環境との接続)を活かす研究が紹介されている2007年の著作。

機械は、単独で存在する冷徹なイメージから、ヒトと共に進化を歩む道に徐々に近づいてきている。

一方で、急速な情報インフラの整備によって、身体の消滅(実際に行って、見聞きしていないような情報でも信じることがあたりまえとなるように)であったり、巨大なデータを解析できるようになって、身体に関わる全ての行為が、(生身の身体さえも)データとして扱われてしまうようになった。

その中で、システマティックな方法とは異なる、身体に根ざしたラディカルな方法論で情報社会を捉える研究が盛んになってきている。



4.触楽入門

触楽入門

触楽入門

もっとも根源的な感覚は、触覚である。 (赤ちゃんの知覚) 母体の中は暗闇なのだから、まあ当然のことです。 しかし、大人になると、触覚が退化(?)し、視覚聴覚優位となります。

私たちは、触覚という感覚を通して、忘れてしまった過去の歴史を発掘する作業をしなければいけません。 視覚は攻撃的な側面もある(何も考えずに見ているときでさえ、見られる側は何かのメッセージを受け取っていることもある)のだけれども、触覚は情報として伝えることが容易ではない感覚でのため、そのさわり心地を言語化してみることが大切です。

そうすることによって、多くの感覚を発見することができる訳です。

そのためのアイデアがいっぱい詰まっている本です。また、たくさんのイラストが、イメージを膨らます手助けとなってくれることでしょう。



5.情報を生み出す触覚の知性:情報社会をいきるための感覚のリテラシー (DOJIN選書)

触覚の特徴を確認してみる。

1.「モノを見る」と「モノに触れる」ということの違い。 視覚は一挙にわかるが、触覚はそうではない(目隠しをしてモノに触れて、それが何かを当てるゲームがあるように)

2.不要なものは無視して対象化しない働きがある。(足の裏の感覚)→意識せずに「分かっている」ことがある。

3.触れる、触れられるという図式は、身体と文字通り「密接」している。(触れられる感触が心地よく感じる効果がある) 他の感覚はどちらかといえば、支配、被支配の関係である。

4.皮膚感覚は、「分かる」手前で起きている。(とっさに避ける行為と同じように、不気味なモノに遭遇すると鳥肌が意識せずに立つ)

5.情報として拡散されない。(この本がはじめての「触知情報学」の試みであるように)

6.分析することが容易でない。この本のように、分析ということがそのまま、触覚の世界の内実を発見し、構成する試みとなっている。

例えば、「触譜」という試みがある。これは、映画鑑賞や音楽鑑賞のように、触覚を鑑賞する試みである。楽譜のように「触譜」を書く。この開発で、なんらかのイメージや感情を伝達することができる。

また、巻末の紹介本も有用である。 行動神経科学者ダマシオのソマティック・マーカー仮説や、西垣通の基礎情報学なども取り上げられている。



6. 第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界

第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界

第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界

常識を打ち破るためのエッセンスが多く詰まっている。

・生体の内部環境では、因果律、時間(過去が未来を決定する)の概念が通用しない可能性がある。(p.204)

・絶対(常識)などということは、生物の進化を見ても存在しない。マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスの概念は、外部からシステムの組織構成への何らかの介入が生じた場合、それは単にシステム自体の損傷を意味するだけである。→非因果律(p.208)

・目で見た世界では説明がつかないことが、皮膚から考えると理解できる。(皮膚感覚は暗黙知)(p.217)

・生命と環境の物理的境界が、皮膚である。皮膚が、感じ、判断し、形を変えるシステムを持つ。内と外を区別することは、自律的である。(表皮の形成)(p.206)